チョウノスケソウの由来

 この和名は,1889年8月に須川長之助が越中国(富山県)立山で採集したバラ科の高山植物が発端になっている。長之助はそのさく葉標本を,すでに帰国していたマキシモビッチ(Carl Johan Maximowicz 1827-1891)のもとへ送った。マキシモビッチは,ヨーロッパ産の Dryas octopetala L. とは別種とする考えだったようだが,Dyas tschonoskii の裸名を残したまま1891年に病没した。
 たまたま,その控えの標本と長之助の採集ノートを入手した牧野富太郎(1862-1957)は,これをヨーロッパ産の Dryas octopetala L. と同一種と判断した。そして発見者須川長之助の名に因んで,新しく「チョウノスケソウ」の和名をつけて発表した(牧野 1891)。その後牧野は,信州(長野県)赤岳(1897,8,9. 矢澤米三郎採集)や駒ヶ岳(1893 羽田貞義採集)の標本も調べて,それらも同じチョウノスケソウ Dryas octopetala L. と同定している(牧野 1901)。なお,矢澤は,独自にミヤマグルマの和名を使用している(矢澤 1897)。
 1916年,中井猛之進(1882-1952)は,朝鮮半島の白頭山の標本(中井1762,森7)を調べてヨーロッパ産の母種の一形とし,forma asiatica Nakai を区別した(中井 1916)が,1932年には変種に昇格させて,Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai とし,牧野が Dryas octopetala L. と同定した標本をすべてこの学名のもとにまとめた(中井 1932)。すなわち,チョウノスケソウの和名(矢澤のミヤマグルマ)はそのままであるが,正式な学名として現在定着しているのは,Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai の方である。
 これとは別に,Dryas octopetala L. とは別種 Dryas tschonoskii Juzepcz. とする Juzepczuk (1893-1959) の説(Juzepczuk 1929) もある。

 ホームページの写真は,1906年8月11日,信濃の国(長野県)白馬山にてM. 三浦が採集した標本である(IUM2466)。牧野の見解を支持して,ラベルには「長之助草 Dryas octopetala L. 」と記入されている。1928年(昭和3)昭和天皇が御来校の折りに天覧に供されたもので,現在農学部附属農業教育資料館の「須川長之助翁記念」文庫に収められ展示されている。

参考文献


牧野富太郎 1895. よう條書屋植物雑記(其二十) 植雑 9:388〜390.(pp.388-389)
牧野富太郎 1897. 雑録 ちやうのすけさうの信州報  植雑 11:447-448.
Makino, T. 1901.Observations on the flora of Japan. Bot. Mag. Tokyo 15: 102-114. (p.110)
Nakai, T. 1916. Praecursores ad floram sylvaticam Coreanam VII. (Rosaceae). Bot. Mag. Tokyo 30: 217-242. (p. 233)
Nakai, T. 1932. Notulae ad plantas Japoniae & Koreae XLVII. Bot. Mag. Tokyo 46:603-632. (pp. 607-608)