マキシモビッチと須川長之助
須川長之助は1842年(天保13),陸中国紫波郡下松本村(現岩手県紫波郡紫波町下松本字元地)において,農業与四郎の長男として出生した。
長之助の家は,祖父彦三郎のときに分家し,わずかな田畑を小作するいわゆる水呑百姓で,生活は豊かではなかったという。長之助は十二歳で奉公に出されたこともあって手習いの機会もなかったが,必要に迫られて独学独習し,ある程度の読み書きはできるようになっていた。今日残されている手帖などのたどたどしい筆跡からもそのことがうかがえる。
年季奉公を終えて家に戻った長之助は,一家の働き手となった。しかし1860年(万延元)十九歳の時,故あって北海道箱館(現函館)に渡り,大工見習い,八幡宮の別当の下僕そしてアメリカ人ホーターの馬丁など職を転々とした後,1861年(文久元)に来日中のロシアの植物学者マキシモビッチ(1827-1891)の掃除夫兼風呂番として雇われることになった。
正直で働き者の長之助は,やがてマキシモビッチの信頼を得て,植物採集の方法やさく葉標本作製の手ほどきを受けて,採集助手としてマキシモビッチの採集旅行に同行するようになる。
1864年(元治元)マキシモビッチが帰国の途に就くまでの三年余,採集助手として氏に同行して南は九州各地(彦山,阿蘇山,霧島,温泉岳等)にまで足跡を残している。
マキシモビッチ(Carl Johan Maximowicz 1827-1891)は,1860年(万延元)箱館に来日した頃,すでにアムール地方の植物調査で高名な研究者として知られていた。来日の目的は国家的使命の一つ,日本のフローラの調査にあった。しかし当時の日本は依然として尊皇攘夷論が吹きまくり,その上外国人に対する旅行制限も厳しかったので,有能な日本人の助手なしではフローラの調査など到底不可能であった。従って長之助との出会いは,マキシモビッチにとって誠に幸運であったと言える。そしてこの主従の交流は,マキシモビッチがサンクト・ペテルブルグの戻った後も長く続くことになった。
長之助はマキシモビッチの依頼により,南部地方はもちろん全国各地に採集旅行に出掛け,さく葉標本を作製してはマキシモビッチのもとに送り続けた。その中には,後にチョウノスケソウの名で知られる越中国立山産の高山植物も含まれていた。これらの資料を基にマキシモビッチは,「日本植物誌」を準備中,志半ばで1891年(明治24)病没する。
マキシモビッチの訃報に接した長之助は,以後農業に専念するようになり,本格的な採集旅行にでることはなかった。1925年(大正14)八十四歳にて永眠。現在岩手県紫波郡紫波町の志和稲荷神社の社頭にある須川長之助翁寿碑は,日露文化交流に貢献した功績を顕彰するために建立されたもので,死の直後に除幕された。また長之助は敬虔なギリシャ正教の信者で1877年(明治10)に洗礼を受けダニエルの聖名を受けた。1978年(昭和53)紫波町名誉町民となる。
マキシモビッチは長之助の労を多とし,新種の命名にあたって種小名にtschonosky を用い,献名して感謝の意を表している。その他の研究者から献名された植物を含めると十種にのぼる。
1. Trillium tschonoskii Maxim. シロバナエンレイソウ
2. Carpinus tschonoskii Maxim. イヌシデ
3. Berberis tschonoskyana Regel オオバメギ
4. Malus tschonoskii (Maxim.) C. K. Schn. オオウラジロノキ
5. Prunus ×tschonoskii Koehne ニッコウザクラ
6. Acer tschonoskii Maxim. ミネカエデ
7. Rhododendron tschonoskii Maxim. コメツツジ
8. Ligustrum tschonoskii Decaisne ミヤマイボタ
9. Lonicera tschonoskii Maxim. オオヒョウタンボク
10. Arnica unalascensis Less. var. tschonoskyi (Iljin)
Kitam. et Hara ウサギギク
さく葉標本,記念文庫
長之助の植物採集はマキシモビッチ(1827-1891)の依頼によるものであるから,そのさく葉標本の大部分はマキシモビッチの勤務するサンクト・ペテルブルグの植物園に送られた。しかし長之助は若干のさく葉標本を手元に残しており,彼の没後,それらの標本が各地に散じた。主な行先は北海道帝国大学と盛岡高等農林学校であった。
岩手大学農学部の前身,盛岡高等農林学校がそのさく葉標本の一部を入手し,保管するに至った経緯は次の通りである。
盛岡高等農林学校創立当時の植物学・植物病理学教授 山田 玄太郎(1873-1943)の書信によれば,“標本は創立当時(1903年頃)物品を(盛岡高農に)納入して居った(盛岡市)穀町の(木津屋の八代目)池野藤兵衛氏(1871-1962)の(筆頭)番頭
(池野家の娘婿)木村某(謹蔵)から貰ったのです。”とされている(富樫 1931)。(註:括弧内は須田が池野和夫より聴取補足した)。
富樫浩吾(1895-1952)は,植物学・植物病理学教授として15年間(1926-1941)盛岡高等農林学校に在職した。そして富樫は1926年(大正15),当時の校長鏡
保之助(在任期間1921-1931)の依頼を受けて,長之助の遺品の収集にあたった。現在「須川長之助翁記念」文庫に収められている遺品は,さく葉標本を除けば,すべてこの時期に収集された品々である。
「須川長之助翁記念」文庫は,1928年(昭和3)10月,陸軍特別大演習統監のために来盛された昭和天皇が盛岡高等農林学校を視察されたのに合わせて作成され,校長鏡
保之助が郷土の植物採集家 須川長之助翁の遺品と標本を陳列して,その業績をご説明申し上げたと記録されている。
その後「須川長之助翁記念」文庫は,盛岡高等農林学校植物学教室,盛岡農林専門学校(1946,昭和21年改称)および岩手大学農学部植物病理学教室(1949,昭和24年改称)が継承保管してきた。1997年(平成9),岩手大学附属図書館に移譲されたが,2000年(平成12)図書館の改築を機に農学部附属農業教育資料館へと移され,現在に至っている。
参考文献
岩手大学農学部編 1962. 「回顧六十年」 岩手大学農学部 盛岡
井上幸三 1981. 「日露交流史の人物 マクシモービチと須川長之助」 岩手植物の会 盛岡
井上幸三 1991. 「岩手植物自然史」 岩手植物の会 盛岡
高橋 壯 1997. 「須川長之助翁記念文庫」 岩手大学農学部 盛岡
富樫浩吾 1931. 長之助翁を偲びて. 巖手植物研究 1(1):5-9.
盛岡高等農林学校創立記念祝賀会編 1913. 「盛岡高等農林学校創立十周年記念帖」 盛岡高等農林学校創立記念祝賀会 盛岡
植物標本の整理,標本目録およびデータベースの作成
1903年に盛岡高等農林学校創立以来,継承保存してきたさく葉を整理して,最初に目録にまとめたのは雪ノ浦参之助である。雪ノ浦は,盛岡高等農林学校に助手として在職中(1922〜1940)に,長之助の標本を整理編述した(雪ノ浦 1949a)。そして1949年から1973年の間に,五篇の論文にして公表している(雪ノ浦 1949a,
1949b, 1951, 1972, 1973)。なお,台紙に残っているラベルの筆跡は,整理の折りに記されたものと後の同定者のもので,長之助のものではない。
標本の同定は,中井猛之進,本田正次,前川文夫,原寛,猪熊泰三,小泉源一,北村四郎,田川基二,牧野富太郎,堀川芳雄,館脇操の各氏が行っている(雪ノ浦 1949a)。台紙には同定者の略記やラベルが残っているものもある。
1997年,「須川長之助翁記念文庫」を図書館に移管する際に,農学部植物病理学教室教授 高橋 壯は所蔵の遺品を再確認して目録を作成し,雪ノ浦が作成した標本目録と標本の現物を一つひとつ照合した。その結果,(1)
雪ノ浦が記載した772点のうち現存するのは680点で,92点が所在不明であること,(2) ニシキギ科およびスイカズラ科の標本が欠落してることを指摘している(高橋 1997)。
2003年に岩手大学ミュージアムが設置されるや,農業教育資料館の「須川長之助翁記念」文庫に額縁入りで展示されている8点を除く全ての標本がミュージアムの植物標本室に移管され,須田
裕研究員が整理に当たった。
本ミュージアム開設と同時に,「岩手大学ミュージアム植物標本データベース作成委員会」も発足した。平成15年度には,故菊地政雄教授採集の“宮城県金華山島産の維管束植物標本”千余点のさく葉標本を整理して,その採集データを入力,データベースを作成した。平成16年度は,以下の基本方針のもとに“須川長之助採集の植物標本”のデータベースを完成した。
(1) 科名の配列は A. Engler's Syllabus der Pflanzenfamilien による。
(2) 和名は現代仮名遣いで記し,学名には原則として「日本の野生植物 平凡社」に用いられている新しい学名を使用する。
(3) 同定者の略記,旧番号,意味不明の数字は省略して,新たに標本番号 IUM0000 を付す。
(4) 全ての標本について,採集記録と画像を載せる。
総じて長之助採集の植物標本は,採集場所,採集年月日等の採集記録が一部欠落している場合も屡々で,必ずしも学術的価値が高いとは言い難いが,我が国近代植物学の黎明期にあって,マキシモビッチを助け,日本植物研究の発展に寄与した植物採集家須川長之助による標本として,その歴史的価値は高く評価されるであろう。
謝 辞
池野和夫氏には,長之助採集のさく葉が盛岡高等農林学校に保管されるに至った経緯の中で,文献では不明確な部分について,詳しい情報をご提供いただいた。また村田古写真館の村田明氏は,さく葉標本の撮影を担当して画像作成にご協力くださった。その他,自然史研究家の井上幸三氏には文献調査で,岩手大学教育学部重松公司教授と岩手県農業研究センターの高橋良学専門研究員の両氏には,データベース作成過程で多くのご助言とご協力をいただいた。心から感謝申し上げる次第である。
本データベースの作成にあったっては,日本学術振興会平成16年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費 課題番号168097)の助成を受けている。ここに記して感謝の意を表するものである。
岩手大学ミュージアム植物標本
データベース作成委員会
委員長 竹原 明秀
参考文献
岩槻邦男編 1992.「日本の野生植物 シダ」 平凡社 東京
岩月善之助編 2001.「日本の野生植物 コケ」 平凡社 東京
Melichior, H. und E. Werdermann 1964. A. Engler's Syllabus der
Pflanzenfamilien I, II. Gebruer Borntraeger Berlin-Nikolassee
中池敏之 1982. 「新日本植物誌 シダ篇」 至文堂 東京
大井次三郎 1975.「改訂増補新版 日本植物誌 顕花篇」 至文堂 東京
佐竹義輔,原寛/亘理俊次,冨成忠夫編 1989.「日本の野生植物 木本I」 平凡社 東京
佐竹義輔,原寛/亘理俊次,冨成忠夫編 1989.「日本の野生植物 木本II」 平凡 社 東京
佐竹義輔,大井次三郎,北村四郎/亘理俊次,冨成忠夫編 1982.「日本の野生植物 草本I 単子葉類」 平凡社 東京
佐竹義輔,大井次三郎,北村四郎/亘理俊次,冨成忠夫編 1982.「日本の野生植物 草本II 離弁花類」 平凡社 東京
佐竹義輔,大井次三郎,北村四郎/亘理俊次,冨成忠夫編 1981.「日本の野生植物 草本III 合弁花類」 平凡社 東京
塚本洋太郎監修 1994. 「園芸植物大事典」 小学館 東京
雪ノ浦参之助 1949a.盛岡農専所蔵 須川長之助翁採集植物目録 (I).東北生物研究 1 (1) : 27-30.
雪ノ浦参之助 1949b.盛岡農専所蔵 須川長之助採集植物目録 (II).東北生物研究 1 (2) : 71-75.
雪ノ浦参之助 1951.盛岡農専所蔵 須川長之助翁採集植物目録 (III).東北生物研究 2 (1) : 37-46.
雪ノ浦参之助 1972.須川長之助採集、植物標本目録.岩手植物の会会報 9 : 1-8.
雪ノ浦参之助 1973.須川長之助採集・植物標本目録.岩手植物の会会報 10 : 11-17.
岩手大学ミュージアム植物標本データベース作成委員会委員名
(平成16年度)
代表 竹原 明秀 岩手大学・人文社会科学部・助教授 植物生態学
岡田 幸助 岩手大学・農学部・教授(館長) 獣医病理学
須田 裕 岩手大学名誉教授 植物分類学
金澤 俊成 岩手大学・教育学部・助教授 園芸学
瀧川 雄治 岩手大学・工学部・教授(副委員長) 有機合成化学
吉田 等明 岩手大学・総合情報処理センター・助教授 情報工学
【連絡先】
住所:020-8550 盛岡市上田三丁目18-8 岩手大学ミュージアム植物標本室
電話・FAX:019-621-6685